January 16, 2018
○1/17の新月―みんなに降り注ぐエネルギー(フツウの戦士サンたちへ♪)
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新月は前回からの課題を経て、次の新月までの約1ヶ月をかけて取り組む新しいテーマが開示される時。 そしてこれは生まれた星座に関係なく、地球に生きるわたし達みんなに平等に降り注ぐエネルギーです。わたし達はこのエネルギーを使って日々、自分なりに考え行動していきます。その現れはひとの数だけ様々ですが、やがてはお互いに影響しあいながら、社会・国・世界の潮流を作っていきます。これは言い換えると、わたし達を取り囲む「空間の雰囲気」です。星読みの世界から見れば、誰もがその中で生き、そのテーマに呼応して・・(素直になったり、反抗したり、無視したりしながら・・)自分なりの人生を創造していると言えます。 その意味でも、刻々と変容していく惑星エネルギーの流れをおおまかに知っておくことは、きっと何かの役に立つんじゃないかと思います。
例えば…シンボルの光景やキーワードを覚えておくだけでも、何かに迷った時の指針になるはず。。ではでは今月も行ってみます!(^_-)
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★新月タイムスケジュール★
願い事やアファメーション、ヒーリング・メディテーションなどしたい方は、もし可能ならこの時間帯に合わせてみてください。エネルギーの高まりを感じとれると思います。(^_^)
【地方平均太陽時: ソーラータイム(LMT) 】
東京・関東ローカルで 1月17日11:37前後、北海道周辺で 11:43前後、関西方面(日本標準時ならこの時間)は11:18前後、沖縄周辺では10:47前後に山羊座 26°54’で新月となります。
*前回の新月のテーマについてはココ、満月についてはココをご覧ください。
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Sabianシンボルによる【 新月がもたらすテーマ 】
*ここではデーン・ルージャー(ルディアー)版やマーク・エドモンド・ジョーンズ版の解釈ではなく、透視家エルシィ・ウィーラーの伝えた象徴の言葉をそのまま書き写した「オリジナル版サビアン・シンボル」を使ったブレイン・ボヴィの解釈を参考にし、アスペクトを加味して読んでいます。
*テーマはひとつの意識の流れを表したものです。この流れは順不同に現れたり循環したり、ひとつだけ突出して感じられる場合もあります。また、解釈の内容はその時々のアスペクトを意識しながら抽出しています。
【太陽・月 山羊座26°~27°― 発効期:1/17~2/15 】
"A water sprite"
→ 『水の精霊』
↓
"A mountain pilgrimage"
→ 『山路の巡礼者』
【テーマがもたらす雰囲気と精神の挑戦(順不同)】
※ひとによっては数日前から前倒しで感じられるかもしれません。
→★外界の荒い大声や喧噪を避けてひとりそっとくつろぎたい気持ち
→★完全な弛緩を避け突然の出来事に即応できる機敏さを保つ必要
→★義務の先延ばしや一時の逃避願望が引き寄せる落とし穴に注意
→★霊的または肉体的エクスタシーを求めて危険な淵に立つ
→★叙事詩・叙情詩または内的な体験を詩的に表現する力
→★無意識に宿る目に見えない世界への理解と記憶をたどる機会
→★変わりやすい気分 ― 高揚とどん底、興奮と動揺、
聖性と野卑さ、祝福と嫉妬などこころの両極を体験する可能性
→★曖昧な文言の裏に隠れた本質、本性、揺れ動く尺度の実態に気付く
→★至高のものを求めて自己を歪め高みを見上げることの無意味さ
→★大きな力に呑み込まれて思わぬ早急な言動に走る危険
→★目に見えない自分の "後ろ側" に重要なもの/ことがあると感知する
→★憑かれたようにトップを目指す or 自分はダメだという考えに取り憑かれる
→★なぜ腹立たしさを感じるのか、常にその隠された動機を探る必要
→★依存による「安全・安心」の対価が「力を明け渡すこと」だという気付き
→★突然の感情の嵐、または外的な状況変化が解放への一歩となる
→★なにか抗いがたい熱情が内部に醸成されつつあることへの気付き
→★「内なる指針」と自由さを頼りに山あり谷ありの道を往く・・・→
★エネルギーのポイント:前回の新月『眠っていた人格や方向性の再発見・再構築』
↓
今回の新月『日々の紆余曲折とは隔絶した内的宇宙を保つ』
今回はいつものように前置きを考えていたのだけど(山羊座と土星の究極についてなど)、なんだか長くなりそうなのでそれは別の機会に回し、いきなり星模様とサビアン・シンボルに行ってみますね。キーワードが多くなってしまい、アスペクトの事例も多いので、読んでくれるひとは迷ってしまうかな?なんて思ったけれど。。 原則としては、アスペクトはネイタルの惑星や感受点がその惑星フォーメーションに触れたひとに起こりがちな事例、新月全体としては、あくまでサビアン・シンボルの大テーマがメインになる...そんな感じで、自分にフィットすることばから感じ取ってみてね。
★1月17日 新月の星模様 すこし★
≪ サビアン・シンボルのテーマの下でアスペクトがもたらす行動面の挑戦 ≫
※遅い惑星のアスペクトは正確な日付の前後数日~数週間発効します。
★MCに冥王星(ICにキラルス)、蠍座の木星がセクスタイル ★新月と金星(とルシファー)のコンジャンクションが天王星とスクエア、蠍座の火星と魚座のカイロンにセクスタイル ★新月と火星がセクスタイル ★木星と冥王星・MCセクスタイル
★ 天王星とオルクスがセスキスクエア
★ 火星と天王星がクインカンクス
★Nノードにジュノー、Sノードにセレスがコンジャンクト
★ノード軸をアスボルスが調停
★水星とBMリリス合がノード軸を攪乱
≪その他心理的な注目期≫
( "抑圧と噴火"の刻の始まり)
★1月20日金星とルシファーが水瓶座2°台でコンジャンクト
★1月21日ケンタウルス族のフォルスが山羊座入り
★1月27日~28日、日付が変わるころ火星が射手座入り
★イクシオンが銀河中心へ向かう(正確なコンジャンクションは2月13日)
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★2018年1月31日 獅子座11°台で満月・皆既月食!
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★1月新月のサビアン・シンボル ★
今回の新月が提示するテーマのベースとなるのは山羊座26°『水の精霊』です。水…それはわたし達の生命に欠かせないもの。本来は無色透明でそれ自体の形を持たず、どんなときも、そのときそのときの器のかたちに沿って存在するもの。留まり、流れ、落ちるもの。
水の精霊(または妖精)といえば、神話にも沢山出てきます。たとえばギリシャ神話の海神オケアノスの娘達、オケアニやネーレーイス達。彼女達は神話の中で繰り広げられる様々な葛藤のドラマや因縁話をつむぐ上で、欠くことの出来ない役どころを演じているのですが... それはどれも、わたし達人間から見たときの水の特性 ― 異世界的なとらえどころの無さ、水鏡の幻惑 ― を体現し、それがえも言われぬ魅惑であるような存在として描かれているように思います。
B.ボヴィはこのシンボルの解説で、やはりギリシャ神話の中で語られた「ヒュラスの悲運」を挙げていました。ヒュラスは英雄ヘラクレスに愛され、有名なアルゴ遠征隊でも弓矢持ちとしてヘラクレスの側近く仕えた美少年でした。けれども旅の途上で泉に水を汲みにいったヒュラスは、ちょうど祭のために水面に出てきた泉のニンフ達に見初められ、水底に引き込まれて二度とこの世界に帰ることはなかったそうです。
そうそう、美少年と泉といえば、ナルシシズムの語源にもなったナルキッソスのお話を思い出すひとも多いのではないでしょうか。ネメシスの罰を受けて自分のことしか愛せなくなったナルキッソスが、ムーサの山の泉に映った自分の姿を見て恋い焦がれ、そのまま死んでしまうというお話...。どれも主人公の少年にとっては突然降りかかった大きな災難、または不運だったと言えるかもしれません。
これらのお話に共通している事実は彼らが「容姿」、つまり外面の美によって皆に愛された存在だったことです。そしてヒュラスは実体を持たない異世界の存在に引き込まれて別次元の者となり、ナルキッソスは水鏡に映った自分という実体のない姿に魂を奪われ、いのちを失ってしまう... うーん、なんだかそこに存在するはずの精霊達も少年も、水というカタチを持たない境界の狭間で、明確な意志を持つことも出来ずに揺蕩う影のようなイメージがあります。
神や精霊、そして悲運の少年達を呑み込んだ「美」っていったい何だったのでしょう? 「水の精霊」はある種のエクスタシーをもたらすとも言われています。 では水面が映す、いのちと引き換えにするほどの美のエクスタシーって...? 自分より大きな力に呑み込まれ、為す術もなく抱擁されて水底に落ちていくエクスタシーって...? ところでナルキッソスは、本当に自分自身を識った上で自分を愛せたでしょうか? それとも外界に自分が愛せる理想の姿を追い求め、ついにその虚無と一体になれたのでしょうか?
B.ボヴィは水の精霊のシンボルを『影を作らないもの』と言っていました。影を作らない…つまり目に見えないもの、実体を持たないもの。米国の人気作家ジャック・ロンドン(1876年~1916年)の作品に『The Shadow and the Flash』という小説があります。わたし自身その小説は未読で詳しい内容までは知らないのですが、その話の中に同じことばが出てきます。その一節を読む限り、作中では黒髪と金髪である以外は容姿が生き写しの二人の青年による「見えなくなる」ことの探求が描かれていました。一方は「人類が今まで知らなかったほどの本物の漆黒」を追い求め、もう片方は「透明さ」、つまり完璧に「光を避け、反射せず、影を作らない」ものを追い求めている...。
この小説の結末は『影を作らないもの』に魅入られた二人の青年同士の闘い、そして非業の死によって終わるようです。 「完全なもの」「完璧なもの」がもし瞬間的にでも存在するとしたら、それが「美」であろうと「理想」であろうと「夢」であろうと全てが実体を持たないものであり... 水面にも鏡にもけっして映ることがない。だから外界の反応や誰かのことばを鏡として確認したり、投影したり、証明したり出来るようなものじゃない...。 ならば『影を作らないもの』を外界に追い求めても、あやかしのニンフ達や呪いの神ネメシスによって深い水底に誘い込まれるだけかもしれない。そこでわたし達は「運命」と名付けた奔流を自らの手で夢遊病のように創り出していく。そしていつの間にか呑み込まれていく...なんてこともある。それがときに「悲運」と呼ばれるエクスタシーに彩られるとしても。。
水の精霊はわたし達に問いかけます。
『完璧な漆黒と完璧な透明さの美はどこにあると思う? どこにも映らないものは、どこに存在するか知ってる? ほら、そこに在るじゃない...』
わたし達は答えます。
『え~? 完璧なものなんて全然求めてないよ。人生ってそんなものだって、よくわかってる。ただ毎日、あれがもうちょっと何とかなればいいのに。これがもっとあんな風だったらいいのに…なんて思うだけだよ! もちろん努力だってしてるよ。でもなかなか思うようにいかないんだよね...』
『うん、そうだね。君の言うとおりだね ♪ ところで君は、どこを見てるの?』
精霊はそう言うと軽くウィンクをしてみせ、パシャッと水音を立ててたちまち消えてしまうのでした。。。 なぁんて(^_^;。
でも、社会性の極みとも言える地性星座宮、山羊座も終盤に入ろうというこの度数が、とらえどころの無い「水の精霊」というシンボルを持っていること。そしてこれに対向し補完する力とされる水性星座宮の蟹座26°が『贅沢さに満足と幸福感を覚えながらソファーで読書する人々』という、社会的に功なり名を遂げた人々を描いたシンボルだというのも不思議な気がしませんか?
実はこれの一つ手前、山羊座25°のシンボルは、社会的な闘いの中で「自信に満ち、断固とした態度で自分の負った責任や役割を世界に表明する」というテーマを持っています。どんと構え、胸を張ったその姿はまさに山羊座第3ディーカンのど真ん中!という感じ。そして対向する蟹座25°は「どんな姿勢を取ったとしても、全ての立ち位置にはそれぞれの影がある」というテーマ。。。 ん?なんだか社会的にも日頃の人間関係にも当てはまりそうな、思わせぶりな組み合わせ。 そして次に直面するのがこの『水の精霊』というシンボルなんです。
今、とりあえず自分が持ちあわせているものに護られ、安全と安心の曖昧な境界線の中でそこそこ満足しながらのんびりソファーに横たわるわたし達。あれやこれや、好きな世界に没頭出来るという、実は大いなる贅沢。ひとときの休息や弛緩はけっして悪いことじゃない。だからこそ、遠くはかない美への憧れを感じたり、理想を追い求めたりも出来るわたし達。そんなとき、美しい水の精霊がひょいと水面に上ってくるかもしれません。でも...。 彼らは実体を持たないもの達。影を作らないもの達。居るのに居ないもの達。
受け取って当然と思ってきた贅沢の中で、けっして捉えられないもの達を追って生きるのか? それとも、捉えられないもの達にいつしか捉えられるのか? 水面の輝きには、無いはずの影が確かに映って見える。そして日々の想いを彩るその曖昧さこそが、居心地良くも感じられる...。
けれどもしわたし達の精神が自己満足の中で弛緩し過ぎてしまうなら、ふいに日常というソファーごと、水底へと誘いこまれるのかもしれません。ならばわたしにとって水面の境界は、果たしてどこに通じているだろう? それはきっと、わたし達の視点がどこにあるか次第なのだと思います。自分が自分であり続けることの難しさ。 この度数は、豊かなインスピレーションを得て見えない世界を感じ取るチャンスも沢山与えてくれるけれど、妄想に囚われて狂った行動に出る危険も含むような、そんな度数かもしれません。
ん。。とても面白いシンボルだったので、ついベースのテーマについて文字数を割きすぎてしまいました。
さて、今回のメインのテーマとなる山羊座27°のシンボルは『山路の巡礼』です。今度はなにやら厳しそうなイメージが来ました。巡礼とは宗教者または修行者で、神や聖性を宿すとされる峻厳な山々を巡り歩き、ときにはいのちを賭けて聖地礼拝の旅をする人々のこと。言語の「pilgrimage」の語源は「peregrine」。そう、「ペレグリン」つまり放浪、流浪、遍歴を意味することばです。古典占星術でペレグリンと言えば、ある惑星が在泊する星座宮において、支配星でもなければイグザルトでもなく、トリプリシティやターム、フェイスとしての格も持たない状態を言いますね。その場の何に対しても誰に対しても関わりを持つことのない、常にアウェイな状況を生きる旅人。そこに居るのに、居ない者。それが山路の巡礼者です。
彼は自分にとっての聖地を求めて歩き続けます。前人未踏の険しい渓谷をよじ登るのも、聖なるものに近付くための修行に過ぎません。どんなに苦しくても、垂直にそそり立つ急峻な断崖に差しかかっても、彼がひるむことはないでしょう。なぜなら胸の内に明確な目的とゴールがあるから。きっと彼のこころの内には宗教的な想いと情熱が渦巻いているのかもしれない。聖地に辿り着けば得られるという超常体験への渇望でいっぱいになっているのかもしれない。この世の欲にまみれた汚濁と弛緩した精神を嫌い、高次元への旅立ちをひたすら願う。けれどもそんな純粋な願いは、結局は一つのパラドックスを含んでいるとも言えます。この世で人間が抱く最後の贅沢、そして最大の強欲は超越者=神と一体になることを求める修行者としての欲望だということ...。
また、B.ボヴィはこのシンボルの興味深いパラドックスをもう一つ例示しています。山路の巡礼は人も通わない獣道をたどり、切り立つ崖を登っては下り、谷を渡り峠を越えていきます。彼は登りに登って上りつめるほど、物理的にも精神的にも高度を上げていけばいくほど、至高の存在に対して膝を折り腰を曲げ、平伏するようになる。自分の存在はどんどん小さくなり、低くなり、無に近付いていく...。
それは聖なる山を支配する至高の存在に圧倒され、呑み込まれることかもしれない。 あるいは、あらゆる草木、蟲や鳥や獣たちの息遣い、渓谷を吹き抜ける風や立ちこめる霧、岩壁をつたい落ちる清水の一滴に溶け込み、ただ我も彼もなく一体となってしまうことかもしれない。
どちらも人間にとっては一種のエクスタシーかもしれないけど、その味わいは全く異なることでしょう。 また、もし強烈な自我意識を残したまま頂上 — 聖なるフォースの場 — で異次元の力に打たれたなら、その巡礼者の内なる全てが極度に肥大しある種の怪物に変じる可能性もあります。それもまたエクスタシー。そして新たな信念、または妄想が生まれます。
ひとが一旦全てを捨てて巡礼の旅に出るということは、何かの「極み」を求めて流浪することかもしれません。過去を捨てたいとか、忘れたい...という欲望も含めて。 求めるものは、ひとそれぞれ。見出すものも、ひとそれぞれ。でもわたし達は、いつも何かしらの「極み」を求めてやまない存在ではないでしょうか。落ち込みと高揚、汚濁と至高、敗北感と勝利の陶酔、悲哀と歓喜、光と影など、平凡な日常の中でも様々に入れ替わる状況や気分の中に、極から極へと揺れ動く無数の小さなわたし達がいます。求めて...求めて...。
社会性の極みとも言える山羊座終盤度数。支配星の土星も山羊座入りして、わたし達は昨日までの人気者があっという間に転落したり、セレブリティが恥辱にまみれて引きずり下ろされたりする光景を沢山見ています。昨日まで元気だったひとが倒れ、無名の誰かが頭角を現す。そして突然の嵐が街や渓谷を襲ったりもする。激しく移り変わっていく風景。この先に何かがある...という予感。それが良いか悪いかはわからない。でも、出来ることなら良くしていきたい...。幸せでありたい。だからこそ怖れ、安全を求める。そんな中で、わたし達はみんな、ある意味 山路の巡礼者かもしれません。たとえ家に引き籠もっているとしても。
自分なりの頂上、自分なりの至高のゴールを目指し、純粋な欲を抱えて歩き出す。贅沢に寝そべっていようと、必死に働いていようと、わたし達は一刻一刻、このいのちを削りながら日々、人生という聖なる山野を巡っている。ならば今、その途上。そこにわたし達は何を見ているのでしょう?
旅路の水鏡に映る自分の姿は水面の揺れとともに刻々と変化します。わたし達は、その鏡を見下ろしながら自分を嫌ったり好きになったりします。そしてその鏡像の自分を通して世界を判断し、嘆いたり微笑んだりします。けれどそこに映る姿は、はたして本当に自分だったのでしょうか? 旅をしているわたしとは、いったい誰なんだろう?
人生の山路をひたすら歩きながら、刻々と変化する景観の中で。いつしかこの世の汚濁も至高の聖性さえも一切を捨てきった、無のまなざしそのものになる。もしかしたら、わたし達の後ろにはそんな巡礼者の影がそっと付き従っているかもしれません。ふり返っても、誰も居ないけれど。
山羊座の終盤、水瓶座でガラッと視点が変わっていくその寸前にふっと湧いて出たような水の精霊と巡礼者のシンボル。ここから先、山羊座終わりまでの度数は、再びあらゆる階層の想いが渦巻く社会性の極みのようなテーマで固められています。その前にちょっと歩みを止めて、深く自分をふり返ってみる。一方向に凝り固まった想いがあるなら、解きほぐす時間を与える。いちど大きく息を吐きだし、軽くなっておく。もし出来るなら、「無」に近いほどに。
今回の新月は、次回 皆既月食の強力な満月を控えてこころと体を澄ませておく、そんな機会を与えてくれると思います。新月図の惑星配置を見ると、今はとても忙しいひとが多いと思うけれど。それでもときには目を閉じて、漆黒の巡礼者になってみる。そういう過ごし方が出来たら.........そんな気がします。
have a great trek!!!★
hiyoka(^_^
新月は前回からの課題を経て、次の新月までの約1ヶ月をかけて取り組む新しいテーマが開示される時。 そしてこれは生まれた星座に関係なく、地球に生きるわたし達みんなに平等に降り注ぐエネルギーです。わたし達はこのエネルギーを使って日々、自分なりに考え行動していきます。その現れはひとの数だけ様々ですが、やがてはお互いに影響しあいながら、社会・国・世界の潮流を作っていきます。これは言い換えると、わたし達を取り囲む「空間の雰囲気」です。星読みの世界から見れば、誰もがその中で生き、そのテーマに呼応して・・(素直になったり、反抗したり、無視したりしながら・・)自分なりの人生を創造していると言えます。 その意味でも、刻々と変容していく惑星エネルギーの流れをおおまかに知っておくことは、きっと何かの役に立つんじゃないかと思います。
例えば…シンボルの光景やキーワードを覚えておくだけでも、何かに迷った時の指針になるはず。。ではでは今月も行ってみます!(^_-)
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★新月タイムスケジュール★
願い事やアファメーション、ヒーリング・メディテーションなどしたい方は、もし可能ならこの時間帯に合わせてみてください。エネルギーの高まりを感じとれると思います。(^_^)
【地方平均太陽時: ソーラータイム(LMT) 】
東京・関東ローカルで 1月17日11:37前後、北海道周辺で 11:43前後、関西方面(日本標準時ならこの時間)は11:18前後、沖縄周辺では10:47前後に山羊座 26°54’で新月となります。
*前回の新月のテーマについてはココ、満月についてはココをご覧ください。
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Sabianシンボルによる【 新月がもたらすテーマ 】
*ここではデーン・ルージャー(ルディアー)版やマーク・エドモンド・ジョーンズ版の解釈ではなく、透視家エルシィ・ウィーラーの伝えた象徴の言葉をそのまま書き写した「オリジナル版サビアン・シンボル」を使ったブレイン・ボヴィの解釈を参考にし、アスペクトを加味して読んでいます。
*テーマはひとつの意識の流れを表したものです。この流れは順不同に現れたり循環したり、ひとつだけ突出して感じられる場合もあります。また、解釈の内容はその時々のアスペクトを意識しながら抽出しています。
【太陽・月 山羊座26°~27°― 発効期:1/17~2/15 】
"A water sprite"
→ 『水の精霊』
↓
"A mountain pilgrimage"
→ 『山路の巡礼者』
【テーマがもたらす雰囲気と精神の挑戦(順不同)】
※ひとによっては数日前から前倒しで感じられるかもしれません。
→★外界の荒い大声や喧噪を避けてひとりそっとくつろぎたい気持ち
→★完全な弛緩を避け突然の出来事に即応できる機敏さを保つ必要
→★義務の先延ばしや一時の逃避願望が引き寄せる落とし穴に注意
→★霊的または肉体的エクスタシーを求めて危険な淵に立つ
→★叙事詩・叙情詩または内的な体験を詩的に表現する力
→★無意識に宿る目に見えない世界への理解と記憶をたどる機会
→★変わりやすい気分 ― 高揚とどん底、興奮と動揺、
聖性と野卑さ、祝福と嫉妬などこころの両極を体験する可能性
→★曖昧な文言の裏に隠れた本質、本性、揺れ動く尺度の実態に気付く
→★至高のものを求めて自己を歪め高みを見上げることの無意味さ
→★大きな力に呑み込まれて思わぬ早急な言動に走る危険
→★目に見えない自分の "後ろ側" に重要なもの/ことがあると感知する
→★憑かれたようにトップを目指す or 自分はダメだという考えに取り憑かれる
→★なぜ腹立たしさを感じるのか、常にその隠された動機を探る必要
→★依存による「安全・安心」の対価が「力を明け渡すこと」だという気付き
→★突然の感情の嵐、または外的な状況変化が解放への一歩となる
→★なにか抗いがたい熱情が内部に醸成されつつあることへの気付き
→★「内なる指針」と自由さを頼りに山あり谷ありの道を往く・・・→
★エネルギーのポイント:前回の新月『眠っていた人格や方向性の再発見・再構築』
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今回の新月『日々の紆余曲折とは隔絶した内的宇宙を保つ』
今回はいつものように前置きを考えていたのだけど(山羊座と土星の究極についてなど)、なんだか長くなりそうなのでそれは別の機会に回し、いきなり星模様とサビアン・シンボルに行ってみますね。キーワードが多くなってしまい、アスペクトの事例も多いので、読んでくれるひとは迷ってしまうかな?なんて思ったけれど。。 原則としては、アスペクトはネイタルの惑星や感受点がその惑星フォーメーションに触れたひとに起こりがちな事例、新月全体としては、あくまでサビアン・シンボルの大テーマがメインになる...そんな感じで、自分にフィットすることばから感じ取ってみてね。
★1月17日 新月の星模様 すこし★
≪ サビアン・シンボルのテーマの下でアスペクトがもたらす行動面の挑戦 ≫
※遅い惑星のアスペクトは正確な日付の前後数日~数週間発効します。
★MCに冥王星(ICにキラルス)、蠍座の木星がセクスタイル ★新月と金星(とルシファー)のコンジャンクションが天王星とスクエア、蠍座の火星と魚座のカイロンにセクスタイル ★新月と火星がセクスタイル ★木星と冥王星・MCセクスタイル
- 舞台裏で行われる策謀、裏切り、疑わしい材料によって責任ある立場の人物が糾弾されやすい傾向、魔女狩り、事実の一部のみが暴露されるなど
- 変わりやすい雰囲気や気分。優しさが第一と思う気持ちを利用される可能性。落ち着いて情勢を読み、闘う姿勢を保持する
- 自分の立ち位置をわきまえずに尻馬に乗って厄介事に巻き込まれる可能性
- 自然災害(降雨・降雪・地震・噴火など)の可能性
- 傷やコンプレックスに触れられることによる抵抗や反抗、感情の噴火
- どこからともなく突然湧き起こる創造性や新しい発見
- 突然内部から押してくる原初の力を何らかの形で表現していく
- 後戻り出来ない覚悟を持って事態を収拾する
★ 天王星とオルクスがセスキスクエア
★ 火星と天王星がクインカンクス
- 溜め込んだ無意識の反発心や復讐心の発動
- 対象となる物事や人物を裁く行為を通して無意識の欲望が透ける(対象には自分自身も含む)
★Nノードにジュノー、Sノードにセレスがコンジャンクト
★ノード軸をアスボルスが調停
★水星とBMリリス合がノード軸を攪乱
- 鋭利な刃物のような批評、底意地の悪い"口撃"、ジェラシー
- 女性性と母性の葛藤、過剰な母性への憎しみ、バランスの模索
- ジェンダーを超えた「人間力」の希求または予感
- 感情の起伏を交えずに「正直であること」の価値が高まる
≪その他心理的な注目期≫
( "抑圧と噴火"の刻の始まり)
★1月20日金星とルシファーが水瓶座2°台でコンジャンクト
★1月21日ケンタウルス族のフォルスが山羊座入り
★1月27日~28日、日付が変わるころ火星が射手座入り
★イクシオンが銀河中心へ向かう(正確なコンジャンクションは2月13日)
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★2018年1月31日 獅子座11°台で満月・皆既月食!
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★1月新月のサビアン・シンボル ★
今回の新月が提示するテーマのベースとなるのは山羊座26°『水の精霊』です。水…それはわたし達の生命に欠かせないもの。本来は無色透明でそれ自体の形を持たず、どんなときも、そのときそのときの器のかたちに沿って存在するもの。留まり、流れ、落ちるもの。
水の精霊(または妖精)といえば、神話にも沢山出てきます。たとえばギリシャ神話の海神オケアノスの娘達、オケアニやネーレーイス達。彼女達は神話の中で繰り広げられる様々な葛藤のドラマや因縁話をつむぐ上で、欠くことの出来ない役どころを演じているのですが... それはどれも、わたし達人間から見たときの水の特性 ― 異世界的なとらえどころの無さ、水鏡の幻惑 ― を体現し、それがえも言われぬ魅惑であるような存在として描かれているように思います。
B.ボヴィはこのシンボルの解説で、やはりギリシャ神話の中で語られた「ヒュラスの悲運」を挙げていました。ヒュラスは英雄ヘラクレスに愛され、有名なアルゴ遠征隊でも弓矢持ちとしてヘラクレスの側近く仕えた美少年でした。けれども旅の途上で泉に水を汲みにいったヒュラスは、ちょうど祭のために水面に出てきた泉のニンフ達に見初められ、水底に引き込まれて二度とこの世界に帰ることはなかったそうです。
そうそう、美少年と泉といえば、ナルシシズムの語源にもなったナルキッソスのお話を思い出すひとも多いのではないでしょうか。ネメシスの罰を受けて自分のことしか愛せなくなったナルキッソスが、ムーサの山の泉に映った自分の姿を見て恋い焦がれ、そのまま死んでしまうというお話...。どれも主人公の少年にとっては突然降りかかった大きな災難、または不運だったと言えるかもしれません。
これらのお話に共通している事実は彼らが「容姿」、つまり外面の美によって皆に愛された存在だったことです。そしてヒュラスは実体を持たない異世界の存在に引き込まれて別次元の者となり、ナルキッソスは水鏡に映った自分という実体のない姿に魂を奪われ、いのちを失ってしまう... うーん、なんだかそこに存在するはずの精霊達も少年も、水というカタチを持たない境界の狭間で、明確な意志を持つことも出来ずに揺蕩う影のようなイメージがあります。
神や精霊、そして悲運の少年達を呑み込んだ「美」っていったい何だったのでしょう? 「水の精霊」はある種のエクスタシーをもたらすとも言われています。 では水面が映す、いのちと引き換えにするほどの美のエクスタシーって...? 自分より大きな力に呑み込まれ、為す術もなく抱擁されて水底に落ちていくエクスタシーって...? ところでナルキッソスは、本当に自分自身を識った上で自分を愛せたでしょうか? それとも外界に自分が愛せる理想の姿を追い求め、ついにその虚無と一体になれたのでしょうか?
B.ボヴィは水の精霊のシンボルを『影を作らないもの』と言っていました。影を作らない…つまり目に見えないもの、実体を持たないもの。米国の人気作家ジャック・ロンドン(1876年~1916年)の作品に『The Shadow and the Flash』という小説があります。わたし自身その小説は未読で詳しい内容までは知らないのですが、その話の中に同じことばが出てきます。その一節を読む限り、作中では黒髪と金髪である以外は容姿が生き写しの二人の青年による「見えなくなる」ことの探求が描かれていました。一方は「人類が今まで知らなかったほどの本物の漆黒」を追い求め、もう片方は「透明さ」、つまり完璧に「光を避け、反射せず、影を作らない」ものを追い求めている...。
この小説の結末は『影を作らないもの』に魅入られた二人の青年同士の闘い、そして非業の死によって終わるようです。 「完全なもの」「完璧なもの」がもし瞬間的にでも存在するとしたら、それが「美」であろうと「理想」であろうと「夢」であろうと全てが実体を持たないものであり... 水面にも鏡にもけっして映ることがない。だから外界の反応や誰かのことばを鏡として確認したり、投影したり、証明したり出来るようなものじゃない...。 ならば『影を作らないもの』を外界に追い求めても、あやかしのニンフ達や呪いの神ネメシスによって深い水底に誘い込まれるだけかもしれない。そこでわたし達は「運命」と名付けた奔流を自らの手で夢遊病のように創り出していく。そしていつの間にか呑み込まれていく...なんてこともある。それがときに「悲運」と呼ばれるエクスタシーに彩られるとしても。。
水の精霊はわたし達に問いかけます。
『完璧な漆黒と完璧な透明さの美はどこにあると思う? どこにも映らないものは、どこに存在するか知ってる? ほら、そこに在るじゃない...』
わたし達は答えます。
『え~? 完璧なものなんて全然求めてないよ。人生ってそんなものだって、よくわかってる。ただ毎日、あれがもうちょっと何とかなればいいのに。これがもっとあんな風だったらいいのに…なんて思うだけだよ! もちろん努力だってしてるよ。でもなかなか思うようにいかないんだよね...』
『うん、そうだね。君の言うとおりだね ♪ ところで君は、どこを見てるの?』
精霊はそう言うと軽くウィンクをしてみせ、パシャッと水音を立ててたちまち消えてしまうのでした。。。 なぁんて(^_^;。
でも、社会性の極みとも言える地性星座宮、山羊座も終盤に入ろうというこの度数が、とらえどころの無い「水の精霊」というシンボルを持っていること。そしてこれに対向し補完する力とされる水性星座宮の蟹座26°が『贅沢さに満足と幸福感を覚えながらソファーで読書する人々』という、社会的に功なり名を遂げた人々を描いたシンボルだというのも不思議な気がしませんか?
実はこれの一つ手前、山羊座25°のシンボルは、社会的な闘いの中で「自信に満ち、断固とした態度で自分の負った責任や役割を世界に表明する」というテーマを持っています。どんと構え、胸を張ったその姿はまさに山羊座第3ディーカンのど真ん中!という感じ。そして対向する蟹座25°は「どんな姿勢を取ったとしても、全ての立ち位置にはそれぞれの影がある」というテーマ。。。 ん?なんだか社会的にも日頃の人間関係にも当てはまりそうな、思わせぶりな組み合わせ。 そして次に直面するのがこの『水の精霊』というシンボルなんです。
今、とりあえず自分が持ちあわせているものに護られ、安全と安心の曖昧な境界線の中でそこそこ満足しながらのんびりソファーに横たわるわたし達。あれやこれや、好きな世界に没頭出来るという、実は大いなる贅沢。ひとときの休息や弛緩はけっして悪いことじゃない。だからこそ、遠くはかない美への憧れを感じたり、理想を追い求めたりも出来るわたし達。そんなとき、美しい水の精霊がひょいと水面に上ってくるかもしれません。でも...。 彼らは実体を持たないもの達。影を作らないもの達。居るのに居ないもの達。
受け取って当然と思ってきた贅沢の中で、けっして捉えられないもの達を追って生きるのか? それとも、捉えられないもの達にいつしか捉えられるのか? 水面の輝きには、無いはずの影が確かに映って見える。そして日々の想いを彩るその曖昧さこそが、居心地良くも感じられる...。
けれどもしわたし達の精神が自己満足の中で弛緩し過ぎてしまうなら、ふいに日常というソファーごと、水底へと誘いこまれるのかもしれません。ならばわたしにとって水面の境界は、果たしてどこに通じているだろう? それはきっと、わたし達の視点がどこにあるか次第なのだと思います。自分が自分であり続けることの難しさ。 この度数は、豊かなインスピレーションを得て見えない世界を感じ取るチャンスも沢山与えてくれるけれど、妄想に囚われて狂った行動に出る危険も含むような、そんな度数かもしれません。
ん。。とても面白いシンボルだったので、ついベースのテーマについて文字数を割きすぎてしまいました。
さて、今回のメインのテーマとなる山羊座27°のシンボルは『山路の巡礼』です。今度はなにやら厳しそうなイメージが来ました。巡礼とは宗教者または修行者で、神や聖性を宿すとされる峻厳な山々を巡り歩き、ときにはいのちを賭けて聖地礼拝の旅をする人々のこと。言語の「pilgrimage」の語源は「peregrine」。そう、「ペレグリン」つまり放浪、流浪、遍歴を意味することばです。古典占星術でペレグリンと言えば、ある惑星が在泊する星座宮において、支配星でもなければイグザルトでもなく、トリプリシティやターム、フェイスとしての格も持たない状態を言いますね。その場の何に対しても誰に対しても関わりを持つことのない、常にアウェイな状況を生きる旅人。そこに居るのに、居ない者。それが山路の巡礼者です。
彼は自分にとっての聖地を求めて歩き続けます。前人未踏の険しい渓谷をよじ登るのも、聖なるものに近付くための修行に過ぎません。どんなに苦しくても、垂直にそそり立つ急峻な断崖に差しかかっても、彼がひるむことはないでしょう。なぜなら胸の内に明確な目的とゴールがあるから。きっと彼のこころの内には宗教的な想いと情熱が渦巻いているのかもしれない。聖地に辿り着けば得られるという超常体験への渇望でいっぱいになっているのかもしれない。この世の欲にまみれた汚濁と弛緩した精神を嫌い、高次元への旅立ちをひたすら願う。けれどもそんな純粋な願いは、結局は一つのパラドックスを含んでいるとも言えます。この世で人間が抱く最後の贅沢、そして最大の強欲は超越者=神と一体になることを求める修行者としての欲望だということ...。
また、B.ボヴィはこのシンボルの興味深いパラドックスをもう一つ例示しています。山路の巡礼は人も通わない獣道をたどり、切り立つ崖を登っては下り、谷を渡り峠を越えていきます。彼は登りに登って上りつめるほど、物理的にも精神的にも高度を上げていけばいくほど、至高の存在に対して膝を折り腰を曲げ、平伏するようになる。自分の存在はどんどん小さくなり、低くなり、無に近付いていく...。
それは聖なる山を支配する至高の存在に圧倒され、呑み込まれることかもしれない。 あるいは、あらゆる草木、蟲や鳥や獣たちの息遣い、渓谷を吹き抜ける風や立ちこめる霧、岩壁をつたい落ちる清水の一滴に溶け込み、ただ我も彼もなく一体となってしまうことかもしれない。
どちらも人間にとっては一種のエクスタシーかもしれないけど、その味わいは全く異なることでしょう。 また、もし強烈な自我意識を残したまま頂上 — 聖なるフォースの場 — で異次元の力に打たれたなら、その巡礼者の内なる全てが極度に肥大しある種の怪物に変じる可能性もあります。それもまたエクスタシー。そして新たな信念、または妄想が生まれます。
ひとが一旦全てを捨てて巡礼の旅に出るということは、何かの「極み」を求めて流浪することかもしれません。過去を捨てたいとか、忘れたい...という欲望も含めて。 求めるものは、ひとそれぞれ。見出すものも、ひとそれぞれ。でもわたし達は、いつも何かしらの「極み」を求めてやまない存在ではないでしょうか。落ち込みと高揚、汚濁と至高、敗北感と勝利の陶酔、悲哀と歓喜、光と影など、平凡な日常の中でも様々に入れ替わる状況や気分の中に、極から極へと揺れ動く無数の小さなわたし達がいます。求めて...求めて...。
社会性の極みとも言える山羊座終盤度数。支配星の土星も山羊座入りして、わたし達は昨日までの人気者があっという間に転落したり、セレブリティが恥辱にまみれて引きずり下ろされたりする光景を沢山見ています。昨日まで元気だったひとが倒れ、無名の誰かが頭角を現す。そして突然の嵐が街や渓谷を襲ったりもする。激しく移り変わっていく風景。この先に何かがある...という予感。それが良いか悪いかはわからない。でも、出来ることなら良くしていきたい...。幸せでありたい。だからこそ怖れ、安全を求める。そんな中で、わたし達はみんな、ある意味 山路の巡礼者かもしれません。たとえ家に引き籠もっているとしても。
自分なりの頂上、自分なりの至高のゴールを目指し、純粋な欲を抱えて歩き出す。贅沢に寝そべっていようと、必死に働いていようと、わたし達は一刻一刻、このいのちを削りながら日々、人生という聖なる山野を巡っている。ならば今、その途上。そこにわたし達は何を見ているのでしょう?
旅路の水鏡に映る自分の姿は水面の揺れとともに刻々と変化します。わたし達は、その鏡を見下ろしながら自分を嫌ったり好きになったりします。そしてその鏡像の自分を通して世界を判断し、嘆いたり微笑んだりします。けれどそこに映る姿は、はたして本当に自分だったのでしょうか? 旅をしているわたしとは、いったい誰なんだろう?
人生の山路をひたすら歩きながら、刻々と変化する景観の中で。いつしかこの世の汚濁も至高の聖性さえも一切を捨てきった、無のまなざしそのものになる。もしかしたら、わたし達の後ろにはそんな巡礼者の影がそっと付き従っているかもしれません。ふり返っても、誰も居ないけれど。
山羊座の終盤、水瓶座でガラッと視点が変わっていくその寸前にふっと湧いて出たような水の精霊と巡礼者のシンボル。ここから先、山羊座終わりまでの度数は、再びあらゆる階層の想いが渦巻く社会性の極みのようなテーマで固められています。その前にちょっと歩みを止めて、深く自分をふり返ってみる。一方向に凝り固まった想いがあるなら、解きほぐす時間を与える。いちど大きく息を吐きだし、軽くなっておく。もし出来るなら、「無」に近いほどに。
今回の新月は、次回 皆既月食の強力な満月を控えてこころと体を澄ませておく、そんな機会を与えてくれると思います。新月図の惑星配置を見ると、今はとても忙しいひとが多いと思うけれど。それでもときには目を閉じて、漆黒の巡礼者になってみる。そういう過ごし方が出来たら.........そんな気がします。
have a great trek!!!★
hiyoka(^_^